【ティーティー言うな!】
ひとつのことを十年続けたら、それはいっぱしのものになる。継続こそ、一人前になる道だ。

継続は、体験の「量」のことであって・・・要は、「量」の先に「質」が降ってくるということ。継続=プロセスの中に自然発生する、「量のための質」の試行錯誤が、正しい「量」と「質」の議論だと思う。質より量か、量より質か・・・・どちらかという問題ではない。

何も始まらないうちの「質」の議論は、たいがい何も生み出さない。クオリティという耳障りの良い言葉に煙にまかれるだけで、成果のための肥やしにならない。しかし、世間では、こういう議論が、思った以上に多い。質だ、質だという輩に限って、あかんたれが多い。腰が重い。何もしない。心当たりがいっぱいある。特に、若い内から「クオリティ」やら「アイデンティティ」やら、ティーティー言う奴は、使えない。

能や狂言の古典芸能は、毎日、同じことを繰り返す。マンネリの中に、本当の美学を見いだすという。毎日、同じ所を、同じように動き、同じように舞えるか。その「量」の切磋琢磨の中に、豊かな表現が降ってくるというわけだ。「量」の体験により、古典の美という大きな地図が、個人の中に描きだされるのだ。

質より量か。量より質か。動きながら考えるか。考えてから動くか。ここらあたりの議論は、あまり意味がない。そんなもん、答えは、「量」である。動きながら考えるである。もう少し詳しく言うと、「量」がなくては始まらない。動いてみなくちゃわからない。

「量」の具体化と達成の向こうにしか、「質」を語る資格はない。まずは、身も蓋もない欲望を満たすことに邁進すること。そして、少しセンスがあれば、その量の精度は高くなる。量をこなす中で見つけた精度の高さこそ、議論するに値する質である。

本当にそう思います。

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